以前から腰痛に悩まされており、数年間隔で医療機関を受診しなければならない状況でした。40歳の時、お正月で運動不足だったのに加えて無防備に重い荷物を持ち上げたことが原因と思われますが、激しい腰痛に見舞われました。医療機関を受診するも、いつものように鎮痛剤を処方され経過観測するようにとの診断。しかし、そのときはいっこうに痛みが治まらず悪化する一方。ついには起き上がることもできなくなり入院することになりました。
あまりの激痛で歩くこともままならない状況での病院受診。とりあえずレントゲンを撮影したところ、椎間板が狭いとのことで腰椎椎間板ヘルニアが疑われました。すぐにMRIを撮影したかったものの、痛みが激しかったので後日撮影することになりそのまま入院。数日後、MRIにて腰椎椎間板ヘルニアが確定しました。
治療は温存方法で牽引することに。通常は通勤でも可能な処置ですが、当時地方で一人暮らしだったこともあり、通院に困難をきたしていたため入院にて治療することになりました。治療内容は、ただひたすらベッドに寝て腰から重りを下げて牽引するだけ。食事やトイレ、夜寝ているとき以外は牽引機器を装着されていました。痛みの治療としては、座薬と内服の鎮痛剤で対処しました。
地元に帰省して入院したため、噂を聞きつけた学生時代の友人がたくさんお見舞いに来てくれたことが嬉しかったです。とはいえ、痛みと牽引でお見舞いに来てもらってもゆっくり話もできない状況ですが、それでも気にかけてわざわざ来てくれたことに感動しました。中でも幼馴染はカテーテルなどの医療器具の管理をしているフェイスメディカルという会社に勤めており、ほぼ毎日病院に来ているため仕事の合間に毎日来てくれて、うれしかったです。昔話を思い出しては懐かしく笑うことでだいぶ痛みを紛らわすことができました。
また、空き部屋がなく個室に入れなかったのですが、同室の方々がとても優しかったのもグッときました。初めて会った方々ばかりなのにもかかわらず「寒くない?」と言って毛布を掛けてくれたり、水を差し入れてくれたり、トイレに行く際には起き上がるのを手助けしてくれたりと、こちらがお願いするより先に気がついてくれて介助してくれました。
入院当初は、年齢も環境も全く異なる中で寝食を共にすることにかなり抵抗を感じ、一人の時はひたすら本ばかりを読んでいました。しかし、周囲の気遣いのおかげですぐに部屋の雰囲気に馴染むことができ、気軽に話をできる関係に。そのおかげで、楽しい入院生活を送ることができました。
入院したばかりの頃は、痛みが激しく起き上がることすらできない状況でした。そんな状況だったため、何かして欲しいときはナースコールで看護師さんを呼ぶように言ってくれましたが、多忙な看護師さんを些細なことで呼ぶことには抵抗があります。しかも、入院していた病室はナースステーションから離れた場所に位置していましたので、なおさら抵抗を感じます。その上、牽引機器も装着しているのでトイレに行く際にも人の手を借りて外さないと動けない状況でした。
1度や2度ならばナースコールも使えますが、何度もコールできてもらうのは抵抗があります。それも、痛みがあるとか、具合が悪いとか言うのならまだしも、トイレに行きたいというたびにわざわざ仕事を中断させてまで来てもらうかと思うと、かなりの抵抗を感じます。お願いしてもテキパキと助けてくれるのですが、急かされているような気持ちで急いで用を足していました。
そんな中同室の方は、定期的に、トイレは大丈夫と声かけしてくれました。何も言わないのに察してくれたことが嬉しかったです。さらに、夜はそっと毛布を掛けてくれていたことも。家族以上の優しさがとても嬉しかったです。同室の方は軽症の方が多かったのもあったかもしれません。
35歳の時に左脚の足首を「蜂窩織炎(ほうかしきえん)」という病気に罹患し入院しました。その時の状況ですが、数日前から左脚足首に鈍痛を感じる様になり最初は「あれ?なんだろうな。ま、ほっときゃそのうち治るわ」程度に軽く考えておりました。しかし痛みは治るどころか日に日に増し、痛みを感じる部分の皮膚はどんどんドス黒く変色し、足首は見る見る腫れ上がり、ついにはまともに歩くことすら出来ないほどの痛みを発する様になりました。
さすがにこの時点で「こりゃ病院に行った方がええな」と判断し、しかしどの診療科を尋ねたら良いかも判りませんでしたので取り敢えず一番近い総合病院に行って受付で相談したところ「取り敢えず皮膚科に行ってください」とのことで皮膚科に行くと、当日の先生が一目見て「あ、これは蜂窩織炎です。すぐに入院してください」となりました。
病院では最初に皮膚科の外来に通されました。その時の先生が「すぐに入院しなければいけない」「すぐに車椅子に乗ってください。足首に負荷をかけてはいけない」「入院中は安静にしてください。決して自分の足で歩かないでください」「移動は車椅子で行ってください」
と驚かされたのを覚えております。
処置は足首に負担がかからぬ様に真っ先に車椅子に乗せられ、すぐに抗生物質の点滴を打たれました。その状態ですぐに病室の空きベッドへ直行し、家族に電話して「これから入院することになった。着替えとか用意してすぐに持ってきて欲しい」と電話しました。
病室のベッドで多少落ち着いた頃、入院のための手続きの書類を事務員が持ってきて署名し、家族が着替えを持って到着したので経緯を説明しました。家族はいきなりのことに驚いていましたが、何よりも自分自身が一番驚いてる状況でした。抗生物質の点滴が切れたらまた次の点滴を打たれて、一日中ベッドに寝ていなければなりませんでした。
驚いたことといえば、車椅子に乗ると全てのものに「手が届きにくくなる」ということでした。自販機にジュースを買いに行った時など、硬貨の投入口まで手が届かなかったり、欲しい商品のボタンに手が届かなかったり、出てきた商品を取るのは車椅子に座った状態だと逆に低すぎて腰を痛めるのではないかと心配になる程前屈せざるを得なかったり、と全てにおいて昨日までの健常者だった立場からは信じられない現実に直面しました。
普段、身障者の方にはお手伝いしましょう、といった啓蒙ポスターなどを目にしていても正直いって「自分には関係のない話だ」として、身障者の方々の世界をどこか他人事として解釈していた自分がいました。ところが自分がいざ車椅子のお世話になる立場になった途端、日本の社会がいかに身障者の方々に不親切な構造で出来上がっているかが、骨身に染みて理解できました。この時ほど自分を恥じ入った事はありません。また、日本の社会インフラの未熟さに「ここまで酷いものなのか」と相当驚きました。
自分は車椅子の操作など生まれてこの方一度も経験したことがないのであちこちにぶつけたり思う方向へいかなかったりと、散々でしたがそうした時、普通の入院患者さんが私の車椅子を押してエレベーターまで案内してくれました。これにはものすごく感動しました。もし自分が逆の立場だったら果たしてこう言った行為が自然にできていただろうか、と逆に反省いたしました。
怖かったことといえば、夜間に同室のおじいさんがいきなり悲鳴を上げて苦しみ出した時でした。これはマジで怖かったです。「ああ、このおじいさん、もうアカンのちゃうか」と見ているこちらが観念したほどでしたから。しかしどこでどうモニターしていたのか判りませんが、看護師数人がバタバタと大急ぎで入室してきてテキパキ処置を施してくれましたので、しばらくしてそのおじいさんの状態は比較的落ち着きを取り戻してきました。もし、あの時看護師の処置が遅かたらもしかしたらあのおじいさんは・・・、と思うと今でもゾッとします。やっぱり目の前でそう言った瞬間は見たくないですから。
2年ほど前に、朝起きたら胃に不快感とちりちり刺すような痛みを感じ、風邪をひいたのかなと考えていました。2週間ほど前からなんとなく食欲が無かったり、疲れやすかったりしていたので、自分なりに胃薬やおかゆなどを摂ったり工夫していました。ところが、その日の午後仕事の会議中に胃が焼けるような腹痛になりました。
しかし、出先で重要な会議の為ずっと我慢していました。繁忙期だったので、そのまま鎮痛剤を飲んでだましだまし会社に戻って残業していましたが、夜になって痛みは強くなる一方。なんとか帰宅してそのまま着替えもせず寝たのですが、痛みが激痛に変わり深夜家族の送迎で救急病院に搬送されました。
深夜に救急搬送されたので専門医がおらず、レントゲンを撮ることもできない状態だったので、早朝までベッドに横になり待機することになりました。痛みを抑えるための点滴をする以外は、触診や問診をされました。朝になるまで痛みはずっと続いたので、眠ることも動くこともできず、とても辛く長い夜だったのを覚えています。
朝になりレントゲン等を撮ったところ、虫垂炎と診断されました。残念ながらかなり重症で、腹膜炎を起こす段階になっており、即日緊急で開腹手術をすることになりました。お腹に傷が残り腹腔鏡手術よりもリスクがあるので、お医者さんからは詳細な説明と同意の確認がありました。
あまりにも痛みに耐えられない状態だったので、二つ返事で手術をお願いし、1時間後には麻酔をしていただきました。その後手術となり、全てが終わった後夜に目が覚めました。1週間から10日程度の入院になるのではないかという見込みでした。
入院前から胃の調子が悪く食事を控えていたこともあり、容態が急変してからはずっと絶食状態が続いていました。手術後の絶食期間も含めて約3日ぶりに食べたのは、重湯。今まで食べたものの中で、本当に一番美味しいのではないかと感じ、食べられることのありがたみを感じました。
しかし、術後の経過があまりよくなかった為、なかなか食欲が沸かず、食事量を戻すことがしばらくできませんでした。飲み物とおかゆを少し食べればすぐに食べられなくなってしまうので、看護師さんが心配して頻繁に声をかけてくださったり、選択できる献立があれば、食べやすそうなものや楽しみになりそうな食事をわざわざ聞きに来てくださったりしました。
同部屋になった方々も優しい方が多く、果物やゼリーなどの食べやすそうなものをいただくことが多かったです。お見舞いに来てくださる方も、お医者様から水をたくさん飲むように指導されていたので、買いに行くのは重たくて大変だろうからと差し入れにおいしい水をいただきました。歩けるようになった後は、食堂で入院されている他の患者さんと会話したり、ご家族のお子さんと一緒に遊ばせていただいたり、寂しくなく過ごすことができました。
術後歩けるようになってから深夜にトイレに行きたくなり、30メートルほどの廊下を歩いてトイレの個室に入りました。時間的にも人の出入りはあまりなく、トイレにいたのも自分だけでした。いつも通り便座に座って用を足そうとしたのですが、血の気が下がるような感覚がしてふっと意識が遠くなるのを感じました。
気が付いた時には、外からドアが強めにノックされて、看護師さんから何度も呼ばれていました。自分の中では一瞬眠りに落ちたくらいの感覚だったのですが、30分以上気絶していたらしく、急患で看護師さんが少なかったこともあり、気づくのに時間がかかってしまったそうです。たまたまトイレに来た他の患者さんが物音もしないのに気づいてくださり、教えてくださったとのこと。
手元にナースボタンもあったのですが、本当に眠るように気絶してしまったので押すこともできませんでした。それ依頼、深夜にトイレに行く際には、必ず看護師さんが廊下から見ていて声をかけてくださるようになり、安心して生活することができました。
9月に本年1回目のギックリ腰になって、整形外科行ってレントゲン撮ったり、骨の様子を診てもらって、骨を強化するという栄養剤と苦痛止めを処方されましたが、他にする事はないという事でわりとよくならず。ざっとよくなるまでひと月以上かかって…で、その上12月に2回目のギックリ腰をやってしまったのです。
ここ5~6年、1年に1回はギックリ腰になるので、如何にしたものかと困っていました。ふとした動作で腰に激痛が走り2?3日ほどまともに動けなくなってしまうので、いつぎっくり腰になってしまうかと思うと怖くて長い間悩まされてきました。休んでいても、寝返りを打つのもつらい。
一度横になると、便所に行くために起き上がるのもすごく時がかかります。そのケースばかりは家事も息子の世話も夫に頼ってなんとか乗り切ってきましたが、寝ていてもたくさん気になってしまいます。ちょうど風邪と重なると咳をしただけでも腰に苦痛が走って、もう完治しないのではないか…と、絶望的な心境になる事も。
その時になって初めて自らを振り返る事が多々あるのですが。いつもの姿勢が悪かったからかもしれない。事例重いものを理不尽して抱えたからかもしれない…。疲れが溜まっていると気づいていたのに、理不尽して動き続けて休まなかったからかもよくないと思っていてもずるずるとやりすごしていたつけが回ってきたので、こうなってしまったのは自身の責務なのですが、毎日の暮らしでわずかずつ感じていたからだの小さな異変を見過ごして、「これくらい平気」と軽く見ていました。
しばらくは動けていたのですが、そのうち変に動くと激しい苦しみが走り、ベッドから動けなくなりました。ぎっくり腰の経験ある方はわかると考えますが、咳やくしゃみをするだけでも10秒間くらい激痛に耐えなければなりません。整形外科や麻酔科によく知っている後輩や先輩がいて、てきぱきと治療して、腰に麻酔注射を打ってもらってからは激痛がなくなりました。そして、近大堺病院院長の小児科竹村教授も何回もお見舞いにきて下さり心配無用しました。
3月3日の夕食はひなまつりスペシャルメニューでした。大変美味しかったです。火曜日からは4日ぶりにベッドから離れる事ができ、近いうちにと歩く事もできました。水曜日にも腰に麻酔注射をしていただき、本日退院する事ができました。ぎっくり腰としては少々重症でした。現在は痛さもおおかたなく、歩行も可能なので、明日からは診察いたします。入院中は患者のこどもたちや保持者の方々に大変ご嫌がらせをおかけして申し訳ございませんでした。
MRIにて腰椎椎間板ヘルニアと所見。久しぶりに見る巨大ヘルニアとの事で誇らしげな、恐ろしいような妙な気分となりました。即入院!10数年前、我が子からもらったMumps(もちろん男性のシンボルが腫れ上がるという合併症つき)以来の入院でした。生まれて初めてストレッチャーに乗せてもらい、麻酔科外来へ。胸膝位がとれないため、仙骨ブロックをしてもらい、ちょっと痛さが安らぎました。
鈍感な私でも入院初日は寝付けませんでした。翌日の神経根ブロック!は強烈です。激痛で思わず身がよじれました。深堀先生曰く、「すごく痛む事を黙っちょったんよ…」と言われました。もう二度とヘルニアにはなりたくありません。おかげで疼痛はかなり改善されました。入院中は快眠快食でした。主治医の解説は言うまでもなく、各種体験談、人から聞いた話などゴチャゴチャと情報を詰め込み、入院3日目に手術する事を判断しました。
退院日と社会復帰が計算可能なという事が主な所以です。除痛が不完全で土日に痛むといけないからという事で18日に硬膜外ブロックを受けました。ただしどうやら効きすぎたらしくしばらくマヒしていたことが怖かったです。
筋力トレーニングが趣味で、肉体美を競うコンテストにも出場しています。毎年コンテストに出場していて、コンテストの4ヶ月くらい前から減量を開始します。減量期間に入ると体の脂肪が減っていくので、筋力トレーニング中に怪我をしやすくなります。脂肪があるとクッションのような役割をしてくれて間接の負担が軽減するのですが、減量中は脂肪が減るのでクッションも無くなります。
去年の6月、減量真っ只中の時に重い重量のスクワットをした時に腰に激痛を感じて立ち上がれなくなりました。病院の整形外科に行き、腰の痛みについて相談しました。この時点では腰の痛みの原因が骨なのか、筋肉なのか私にはよく分からない状態です。先生に「筋力トレーニング中に怪我をした」ということを伝えると、「凄い体なので絶対にトレーニングをしていると思いました」と言われたことを覚えています。怪我をしているので精神的に余裕がなかったのですが、この言葉は印象に残っています。
上半身を脱いで、痛みを感じる動きを確かめながら、問診を行っていきます。「持病はないか」、「腰の他に違和感があるところはないか」を聞かれました。その後はレントゲンを取り、骨には異常があり、椎間板ヘルニアも発症していたので入院することになりました。
昔から病院が嫌いで、風邪をひいても我慢するような子供でした。30歳になって初めて入院したので、驚きの連続でした。まずは私を含めた6人の患者さんと同じく空間で過ごすということに驚きました。アパートやマンションのように壁はないですし、カーテンを開ければ他人がすぐ近くにいるという感覚が不思議でした。
最初のうちは誰とも話さず、自分の空間だけで過ごしていたのですが、次第に周りの方と話すようになり、色々なことを話しました。一番印象に残っているのは正面のベッドに入院している60代のおじさんです。週に1回おじさんの孫が会いに来ていて、孫から絵のプレゼントをもらったり、お菓子をもらっているところを見ていました。
「微笑ましいな」、「自分も祖父に会いたいな」と思いながら見ていたことを今でも覚えています。ある時そのおじさんが私のベッドの横に来て、「私は甘いものは控えているから、良かったら食べてね」と言ってお菓子をくれました。その時のおじさんの顔が優しさにあふれていて印象に残っています。
入院中に怖かったことは結構たくさんあります。忙しい時の看護師さんはとても怖いなと思いました。毎日激務をこなしているので仕方がないと思いますが、たまに言い方がきつい時があるので見ていて怖いです。
ベテラン看護師さんが若い看護師さんに指示を出す時際などは、こちらの方がヒヤヒヤしたほどです。点滴の時になかなか血管が見つけられなかったのか、何度も刺し違えていて時間がかかっていました。するとそれに気づいたベテラン看護師さんが「まだやってるの?できないなら言って」と言いに来たので「大丈夫ですよ」となぜか私が言い訳してしまいました。
困ったことは同部屋の方の寝言やいびきです。突然「うあー」という声が聞こえたり、一晩中いびきが聞こえるときもあるので困りました。注意したかったですが、トラブルになっても嫌なのでイヤホンをして音楽を聞いて気分をごまかしていました。
入院して1週間くらいは自分で歩くことが出来なかったので、車椅子で移動することが多かったのですが、操作に慣れるまで苦労しました。産まれて初めて車椅子に乗ったのですが、ちょっとした段差や坂道を恐怖に感じたのは初めてです。街で車椅子の方を見かけたら、何か手伝ってあげたいという気持ちになりました。感動したエピソードは私のことを心配してくれる家族、友人がたくさんいることに気がついたことです。LINEを見たら100件近く心配の声が届いていたので嬉しかったです。